回復コスト

3月26日に発売されたモンスターハンター新作、みなさんはプレイしてますか?私は体験版こそやってみたものの、まだ購入してません。オープンワールドの広い世界を縦横無尽に走り回る感じ、面白そうです。

モンスターハンターといえば、回復薬を服用した後のグッっとするガッツポーズ。最新作では走り回りながらでも薬を飲めるし、なんならオトモに騎乗しながら砥石で武器を研げると便利になったようです。ゲームスピード上昇もありますが、時代ですね。

あのガッツポーズは「なんで敵が目の前にいるのにガッツポーズしてんだよ!」と突っ込みたくなるものです。結構時間長いし、そんなことやってるからむしろ回復量より多くダメージ喰らったよ!、と。

ただ、回復がノーリスクでできてしまうの考えものです。もちろん、回復薬は無限湧きではなく、モンハンの場合は所持数制限もあるので、常に回復コストはかかるわけですが、金銭的側面以外のコストがない回復動作はゲーム性を捻じ曲げます。いくらでも回復できるなら喰らいまくってもいいから適当に殴って回復するだけのクソゲー、と最悪なりかねません。

ではとても回復できないような作りにしてしまっては?それはそれでまったくの別ゲー、オワタ式というか、リカバリーの一切利かないゲームになってしまいます。どんな攻撃でもあたれば即死、なんていうのは昔のゲームなんかには特によくありました。それはそれで面白さはあります。

アイテム課金制のネットゲームでありがちな、課金回復薬は、往々にして無課金で手に入る回復薬より性能の高いものです。ものによっては回復量だけでなく、通常の回復薬と別のクールタイムで管理されていることも。もちろん、課金させるサービスのつくりから、課金のメリットを作るのは至極まっとうなのですが、HP・MP管理が面白いゲームであると破格の性能の回復薬(全回復とかね)は新しい次元を作り出します。課金薬前提の、そこがスタートラインとなるような。

脱線というか、脱線するほどのテーマ性もなかったですが、「回復」という行動にどれだけのコスト・リスクを持たせるか、というのはゲーム性を大きく変えるということです。モンハンのガッツポーズについては、回復薬のモーションを軽減するバフをつけるとか、そういう選択的な価値を生み出しているのはうまいなあと。

ポケモンでもじこさいせいは1ターン使うし、ねむるは全回復するけど2ターン眠ってしまうし。かいふくのくすりは高いし、げんきのかたまりは非売品。私はなんだかんだいって回復薬は身を削るほどの値段が好きです。ケチった結果倒れてしまうのがリスクリターンの見誤りという感じで。日常生活でも、夜更かしの気力回復のコストで体力を失うのは、何かいろいろ見誤ってますね。

一番最後に来る人

春ですね。

ということで今日も特になんてことのない話なんですけど。

 

複数人で待ち合わせしたときに一番最後に来る人っているじゃないですか。同じ電車を使っていれば同時になりますけど、全員がそうなるパターンっていうのは非常に稀だと思うので、ここは考慮しなくていいでしょう。

んで全員が待ち合わせ時間に間に合わないことも非常に多くて、複数人が時間通りに来ないこともあると思います。

 

約束の時間10分前に来たAさん、ちょうどに来たBさん、3分遅れで来たCさん、10分遅れで来たDさんという具合だったとします。なお5分前行動は考慮しないものとします。

この場合、集合は実質的に10分遅れのDさんに合わせて後ずれします。頼んでもないのに勝手に早く来るAさんはその10分で精神的安定を得ていると思うのでどうでもいいんですが、ちょうどに来たBさんも10分待たされるんですね。

しかし本来3分のロスを生じさせていたCさんも逆に7分待たされ、実際はAさんBさんに影響を及ぼしていことになります。Cさんは許されるんでしょうか?

まぁきっと許されるんですけどね。

 

そんなことは日常茶飯事で、なんにしても集団で行動するには一番進度が遅い人に合わせるのが当然です。同時に進度が速い人の効率を奪っていることも事実ではあります。

結局チーム戦で一番大事なのはこの進度の「ムラ」が少ない状態が望ましく、モチベーションも近い人達と集まることで長続きしますね。

 

…とまぁバリバリの戦闘集団なら、モチベーションが近くない場合自然消滅となるケースが多いと思います。音楽性の違いもその一つかもしれません。その一方でこれが家族や友人、職場などなら必ずしもそうではなくて、もっと柔軟なものではあります。

待ち合わせに遅れたDさんも、きっとそれ以外の分野での貢献があるからこそ、仲間として認識されているんだと思います。

 

とりあえずそんなわけで、このブログをちゃんと書くことが私の贖罪であり運命の舞台になるわけです。タピオカ頑張ります。

 

多少の進捗遅れくらい許してくださいね(開き直り

増加

2月は28日しかないのでもう終わるらしいです。油断も隙もあったものではありませんが、第2週第4週に建国記念日天皇誕生日と2つ祝日があったので過ごしやすい陽気でございました。

さて、そんなこととは全く関係なく、特にテーマも思いつかなかったので、最近みた数列「5点 10点 15点 25点 40点」*1から記事を書こうと思います。

とはいっても、内容を膨らますことができるわけではなく、フィボナッチ数列の5倍ということで議論は終わりですが、どこか自然な数字の伸びはやはり裏があったなあということです。

「5 10 15」ときて等差数列であれば「20 25 30」、しかし件のフィボナッチ数列であれば「25 40 65」と先に進むにつれ多少数字が大きくなります。ただ等比数列のように急激でなく、あくまで穏やかに。

近しいところでは「2回 4回 7回 11回 16回 22回 29回 37回」という数列もありました*2。いうなれば等差差数列ですね。全項1を引くと馴染みのある数列になります。では「1000点 1000点 1500点 2000点 2500点 3500点 5000点 7000点 9500点 12500点」*3は?

増加するものと言えば膨らむ借金や体重・体脂肪率睡眠負債にゲームのプレイ時間など様々ありますが、一様に与えられた1日24時間を様々に分け与えて進捗を生んでいきたいことですね。

もちろん、課金して一気に進捗を生む、というのもありよりのあり。

*1:ゴブリンスレイヤーTRPG 著者:川上忠明とグループSNE(原作:蝸牛くも)238頁 表中より引用

*2:同 240頁 表中より引用

*3:同 237頁 表中より引用

消極的やり込むタイプ

こんにちは、タピオカです。誰だよ。

このブログ更新を心待ちにしている奇特なファンの皆さんにはお待たせして申し訳ありません。

 

まぁなんの話かというと、広く浅く触るのか、狭く深く突き詰めるのかというようなことです。大抵のことはどちらかに分類されるように見受けられます。

ただこの深さっていうのは非常に曖昧なもので、その個人(や団体)によって許容できる総量も違っていれば、浅い深いの定義もまちまちなので、絶対的な物差しはありません。深くやっているつもりの人が浅くやってる人に及ばないこともままあります。

 

基本的にあなたが余程大成する器でないなら、広く浅くやっておいた方が効率的ではありそうです。ある程度のところまで行くと成長が鈍るのでその手前で止めておけば同じ労力で多くのことを得られることが多いんじゃないでしょうか。

一番労力に対して得られる成果が大きく、いわば葉の柔らかい部分だけ食べているようなものなのです。

 

ではどうして深く向き合うタイプの人がいるのかと言うと、葉を食べつくして幹や茎に辿り着けた者の得られる効用は、葉だけ齧っている人とは次元の違う愉しみだからではあります。根本的に求めているものが違うわけですね。

 

人間は情報の非対称性こそあれど基本的には合理的な選択をします。ではどうして頑張っても葉止まりなのに深くやりこむ(つもりになる)人がいるのかということになってきます。

ちなみに私もこの分類の人間です。

 

それは単純に、新たな試みに対するコストの方が、既知のものから得られる僅かな成果と比べて重いと判断しているからだと考えられます。平たく言えばめんどくさいんですけどね。

1から2にするのは簡単でも0から1にするのは難しいので、新しく何かに触れるということは最初の部分だけ若干の難しさがあります。ここで挫折するわけです。

結果として3が沢山作れるわけでも、10がひとつ作れるわけでもなく、4~6くらいの使い物にならないものがいくつかできてしまうということです。

早熟タイプと晩成タイプっていうのはまぁおそらくあって、晩成タイプであるもののそこまでの努力ができない人間がここに落ち着いているとみて間違いないでしょう。

 

ちょっと抽象的に書きましたが、今私はひとつ0から1にしなければならない事案を抱えています。ここが非常に頑張りどころです。

 

なにはともあれ、応援よろしくお願いします。

3人の気楽さと難しさ。

仲良し〇人組なんて言葉を耳にする時、〇に入る数字は大抵3か4、あって5だと思っていて、2はここで言うところの「組」と呼ぶには少なすぎるし、6、7、8…と言う数が入ることもそうそうない。

じゃあなんで後者の数字群が入らないのかと言えば、一つには「仲良し」と言う言葉の持つ距離の近さ、つまりは定期的に、そして気楽に集まれる人数の枠を超えてしまっていると言うのが原因だと思っています。

で、ここでは別段「仲良し」についてどうこう言いたい訳ではなく、〇人組、具体的には3人組について自分の思うメリット・デメリットをテキトーに書いていきたい。

メリットから挙げ始めれば、まず何と言っても、3人組は集まりやすい。少なければ少ないほど予定が合わせやすい以上、個と個の集まりである2人を別とすれば、3人組は普通に考えて集まりやすい組み合わせなわけです。

もし3人でも集まりが悪かったり、全体のフットワークが重いなんてことがあるならば、それは構成する人員の問題であって人数の問題ではない。誰か一人が先頭に立ち、残りの二人を先導する行動力さえ身に着ければ良いのです。

その他にもメリットは思い付くものの、限られた時間の中でまとめられる気がしないので省略。以下、本題としてここ最近(と言うわけではないものの)感じる3人組のデメリットを一つ。

それは、マジで遊ぶゲームの選択肢が限られることです。オンラインゲームなんか特に顕著ですが、どうしても4人前提で作られている傾向がありまして、3人組だと一人分の穴が生まれてしまう。

これが技量やなんかで埋められればいいんですが、求めているゲームの方向性によっては意外と難しいものがあるんですよね。まあこの広い世の中、きっと私どもの需要に応えてくれるゲームはあるはずなので、こちら側のリサーチの問題と言われればそれまでなんでしょうが。

結局何が言いたかったと言えば、未だにゲームの選択は難航中だと言うことです。桃鉄百年は流石に遠慮したいし、何とかゲームを見繕って提案したいと思いつつ、今回はこの辺で。大それたタイトル付けておきながら、おかしな方向へ突き進みましたこと、ご容赦ください。

ちなみに、最後に追加で3人のデメリットを挙げるならば、それはビリが際立つこと。だからなんとか桃鉄は回避したいんですが、どうなることやら…。

9人(その2)

以前、9人について記事を書きました

一番大事なのは奇数であることで、センターがはっきりする

物のたとえに野球を用いる国民性だから9が受け入れられている

 と当時は書きましたが、藤井聡太二冠*1で盛り上がっている将棋もこれに当てはまりそうだなと思ってもう一度記事にしてみました。

 まずはセンターがはっきりすることですが、将棋盤は9マス×9マスの世界。縦にも横にもセンターが存在します。コマのセンターとしては後列に並んだ9枚のうち、ばっちり、王の座す列がセンターです。両サイドがっちりと金銀で固め、並びも美しいです。センターに早くから飛車を振って中飛車とするとゴキゲンになれますし、5筋の位を取るとセンターもセンターです。しかも強い*2
9枚の中でパート分けをするなら桂香が2枚パート2組、大駒の金銀に王将を加えた5枚で1パートでしょうか。
一方、8マス×8マスの世界であるチェスではセンターはなく、将棋の王将にあたるキングは右*3に寄ります。チェスではキングとクイーン2コマでのセンターですね。このキングとクイーンの左右の位置、チェスを始めるにはまず駒を正確に並べることが第一関門だと思います。

サッカーがもっと強ければ11がスタンダードになっていた

 逆の話をすると、将棋が縦横11マスであれば……まず盤面を指し示すのが面倒になりますね。10進法の世界ではどうしても桁が増えてしまうので。実際、12マスの中将棋、15マスの大将棋になると……あ、ふーん*4。とにかく、定着したのは本将棋の9マス×9マスです。やっぱり9だね。

まあそれはそれとして、物のたとえに将棋を用いることもそこそこあるかと思います。それこそ、王手、成金、高飛車……と挙げていけばたくさんありますね。

「『王手飛車取り』だ。…すでにおまえの敗北の形…!」*5

それで9人、というこの記事タイトルですが、将棋にも駒が9種類……王将、金将銀将、桂馬、香車、飛車、角行、歩兵……玉将とあります*6。そして駒の価値と役割については広く浸透しているかと思います。以前の記事、決定力で書いたような「○○で打線を組んでみた」ができるわけです。「うんうん、君は脇が甘いから「銀将」だな、」とか「君は捨て駒の「歩兵」、じゃ、そういうことで。」みたいな。そもそも王と玉は敵味方になりますが……

というわけで、人を将棋の駒に例えるやつ、ありました*7

news.mynavi.jp

 自分をたとえてもらうのもよいですが、例えば、「桂馬」ならどう答えれば出るかな、とやってみる*8のも一興かと思います。

 今回はこのくらいで。

*1:投稿日現在 王位・棋聖であってますか?

*2:書き手は将棋に明るくないですが

*3:白の場合。黒は左。

*4:書こうと思うとこれだけでたくさん書けてしまうので調べてみてね

*5:ジョジョリオン」より

*6:成駒はひとまず置いといて

*7:もちろん他にもありますが

*8:私は桂馬を狙って金将になりました。イメージの相違ですね。

ケーキの話

遅ればせながら、あけましておめでとうございます。

存続が危ぶまれる緩さの当ブログも無事年を越すことができました。

月3回程度の更新ペースは守っていきたいものです。

 

皆さん新年の誓いは立てましたか?

別に元旦でなくとも、新年度でも誕生日や記念日でも、そもそも何もない日でも、そういう誓いは立てていいんですが、まぁやっぱり年の変わり目は万人にとっての区切りであるので、それが自然な流れでしょう。

目標とかは忘れてしまうのでブログやSNSにでもアップしておくことを推奨します。

 

まぁそんな前置きとは全然関係がないんですが、最近個人的には改めて、物事を公正に評価するって難しいなと感じています。

例えば毎日ケーキをひとつ食べてレヴューを書くとします。昨日食べたケーキと今日食べたケーキどちらたより優れていたのか?をどれだけ正しく判断できるかということですね。

食べる時間や空腹具合をある程度揃えることができても気分や体調によってどうしても何らかのバイアスがかかってしまいます。それをどれだけ取り除いて言語化し評価に繋げられるかというのが公正さかなと思います。

別に極端な話、食べる時間や空腹具合もどうでもよくて、自身のそういったコンディションも加味して考えられるのであればいいわけです。

しかし昨日のケーキと比べて判断が難しい評価だったとき、「今は甘いものの気分ではなかったからあまり美味しく感じなかったけど昨日食べたものより美味しい気がする」と感じたとして、それも「今は甘いものの気分ではなかったから」という部分が過大に修正されてしまうと本当は昨日の方が優れていたのに誤った判断になっているわけです。

自分で食べるための美味いケーキ探しなら上位群をリピートしていくうちに数字が収束して結論が出せるわけですが、「評価するため」の評価や他人への公開を伴っている場合はそれなりの責任があるので、やっぱりどれだけ公正かは考えたいところです。

好みの判断は人それぞれですが、その人としての評価軸はできるだけぶれたくないですね。

 

さて結論としては、好き嫌いなんてものはコンディションやそもそも人によって全然違うので、適当にその時の気分で決めちゃっていいと思います。ここまでの話はなんだったんだ。

同時に他人の下した評価には特に信憑性もないということです。

みんなで美味いケーキを探して発信していって、その総合が正当な評価に近いですからね。

 

是非その手元にある通信端末で、色々な意見や感想を発信していきましょう。いい時代になりました。

あ、別にケーキには興味がないのでどっちでもいいです。