鍋間に消えた白い君、あるいはベルクソン『笑い』についての戯言。

しゃぶしゃぶ温野菜という飲食チェーンがある。しゃぶしゃぶの食べ放題を売りにしたこの店では、コースの設定時に鍋の味を選べ、一度に二つの味を楽しむことが出来るようになっている。しゃぶしゃぶの出汁から二種類、またはしゃぶしゃぶと特選鍋から一種類ずつ選ぶことが出来るのだが、後者にはコラーゲン鍋やもつ鍋、トマト鍋など、面白いものが多い。

もちろん、前者のしゃぶしゃぶ出汁の種類も豊富だ。オーソドックスな和牛出汁や昆布出汁はもちろん、豆乳出汁や火鍋出汁、すきしゃぶ出汁などなど。奇抜に見えるものも当然ながら美味しい。同行者曰く、商品として出されてるんだから味は保証されているに違いないとのことだが、まさにその通り。普段温野菜で無難な鍋汁しか選ばないのであれば、騙されたと思ってピンと来たものを取り合えず選んでみてはいかがだろうか。

さて、ここまで語っておいて何だが、別に私は温野菜の宣伝がしたい訳でもなければ、鍋液の感想について語っていきたいわけでもない。ちなみに先週行った際は私の一存ですきしゃぶ出汁と生姜とろろ出汁を選ばせてもらい、どちらも美味ではあったが、別にそれも今回の内容とは直接関係ない*1

では何を書いていくのかと言えば、今回は先日温野菜に行った際に印象的だったエピソードについて書いていきたいと思っている。ネタに困っていると言うのもあるし、こうした思い出は意外と残さないと薄れてしまうものだと最近とみに感じるからだ。

もちろん、すべての思い出を記録できるわけではないし、記録を残すことが良いことばかりではないとも思うが、これについてはいつか語るかも知れないし、語らないかもしれない。

……前置きが長くなった。

ここに一つの呟きがある。

ユーザー名からもわかる通り、これは私のツイートである。

そしてここに写っているのは、Mr.ホワイト*2ならぬコラーゲン製の熊である。この熊は、生姜とろろ出汁*3に付いてくるコラーゲンなのだが、以下日記として彼に起きた悲劇、つまりは彼の顛末について記していきたいと思う。

液の入った鍋に遅れてくること数刻、現れたコラーゲン製の熊が机を囲む我々を和ませたのは言うまでもない。記録として写真を撮っていた私は、このおたまから彼を解放し鍋液に浸からせ、それを写真に収めたいと思っていた。

当然、その場にいた全員が私の意図を察知し、熊が鍋に浸かる瞬間を待っていた。

だがしかし、それは果たされなかった。

私の傾けたおたまから、彼は波間に身を投げた。

それはもう、頭から、どぶんと。音を立てて。

事態が理解された途端に机を包む笑い声。

救い上げようとした時には既に遅し、熱に負けた耳は溶け落ち、表情を作り上げていた黒い模様はどこへともなく消え去っていた。しばらくの間笑いは絶えず、その日一番のとは言わないまでも、印象的なエピソードであったことは確かである。

だがしかし、長々と語って来はしたが、言ってしまえばただ熊の形をしたコラーゲンを鍋に浸からせようとした結果、手元が狂って鍋にぶちまけてしまったと言うだけの話である。熊を救出しようとする試みは失敗し、かつての愛らしい姿は失われ、見るも無残な姿になってしまった。ただそれだけの話である。

あの場にいた人物以外に語ることはないであろうし、そもそも当事者間ですら今後語り合うか不明な、薄れ行く、ありふれた日常の1ページだ。

当事者である私自身、今となっては何がおかしくて笑っていたのか分からない。だがしかし、あの瞬間に私たちが笑っていたのは紛れもない事実なのである。

では、なぜ私たちはあの時、笑ってしまったのだろうか。

フランスの哲学者アンリ・ベルクソンは、その著作『笑い』において、おかしさの起こるポイントを3つにまとめている。そのポイントとは、一つは人間的であること、二つ目は笑う者が無感動であること、そして三つ目――これが一番大きい気はするのだが――は他の知性と接触していることである*4

笑い (光文社古典新訳文庫)

笑い (光文社古典新訳文庫)

 

一つずつ今回のエピソードと照らし合わせてみよう。まず人間的であるとは何か。ベルクソンによれば、人間的であるもの以外におかしさはないのだそうだ。動物や帽子を見て笑うことがあったとしても、それはあくまで人間との類似や、人間がその物に与えたレッテル、その造形をよしとした人間に対して笑うのである。

今回の場合、一つには私が仕出かしてしまった人為的ミスであると言う側面がある。そして、これが熊の形をしていたことも人間的であると言えるに違いない。ただのコラーゲンの塊であったならば、私たちがここまで笑うことはなかっただろう。私たちは知らず知らずの内に熊と言うキャラクターをコラーゲンに与え、擬人化してその顛末を見守っていた。だからこそ、私が彼を突き落としたと言う見立てを通して、笑いが起きる場が生まれたのではないだろうか。

二つ目にベルクソンは、笑う者が無感動であることを挙げている。これについては、私たちは無感動どころか、笑っている時には感情が動かされているではないか、と思う方もいることだろう。ここで言う感動とは、言わば感情移入のことを指している。つまりは他者への共感や関心の有無が笑いに大きく左右するということだ。

例えば、余所見をして電柱に体をぶつけた人を目の当たりにした時、大抵の人は思わず笑ってしまうことだろう。だがしかし、これが友人や家族で会った場合はどうだろうか。笑う以前に、まず心配が先に顔を出すに違いない。

その点、上記の場面で熊や、ましてや私に対して心配をしたり、同情を寄せたりすることはないだろう*5。これについてベルクソンは、おかしさは感情ではなく純粋知性に訴えるのだと述べている。

そして最後、他の知性との接触とは何か。ベルクソンによれば、人は自分が孤立を感じている時にはおかしさを感じないと言う。例えば、大学の教室にて、授業前に盛り上がっている集団があるとする。聞くともなしに耳を傾けてみれば、何のことはない、話しているのはしょうもない馬鹿話だ。

では、彼らがお愛想で笑い合っているのかと言えば、もちろんそうではない。彼らはある種の共犯関係を築いており、それ故に彼らは笑っているのだ。私たちが笑うには、他の知性とそれを共有し合うことが必要となる。一人で笑う時でさえも、こうした社会性を有していると言うのがベルクソンの考えだ。

こうした考察を皮切りに、彼は自らの論理を展開していくわけだが、紙面の問題もあるし、今回はこの辺りで筆を置きたいと思う。と言うかそもそも、私はこの本を最後まで読み切っていないし、何ならこの該当箇所数ページを拾い読んだに過ぎないから語りようもないのだ。

白状すれば、ここまで偉そうに語っておきながら、私は『笑い』はもちろんのこと、ベルクソンの著作もまともに読んですらいない。何となくそれらしいことを書こうとしたら、着地点を失い戸惑っている、と言うのが今の私の状況だ。

だらだらと書き連ね、現在3400字強。果たしてこれをどれだけの人が読むのか甚だ疑問だが、目的もないブログの幕開けとしては、こんな始まりも悪くないのではなかろうか。

*1:すきしゃぶ出汁は、すき焼き風の甘めの出汁でしゃぶり、別途生卵を付けて食べる、まさにすき焼きだったわけだが、これが当然ながら美味しかった。頼みはしなかったが、メニューには追加の卵もあり、卵不足に陥る心配がないことにも触れておきたい。ただし、わざわざしゃぶしゃぶを食べに行ってまですき焼き風の鍋液を頼むべきかは個人の裁量にお任せする。

*2:Mr.ホワイトとは、『少女☆歌劇レヴュースタァライト』に登場する白くま然としたマスコットの名前である。主人公・愛城華恋の幼馴染、神楽ひかりが身に着けている熊、と言えば分かるだろうか。ちなみに、彼女の嫌いなものはプルプルしたもの……らしい。なお、コラーゲンであるこの熊は当然プルプルしていた。

*3:食べ放題料金に加え、別途500円の追加を課されるハイバリュー鍋液。さっぱりとした生姜味に、とろろとコラーゲンのまろやかさが交わり普通に旨い。

*4:ベルクソンは「おかしさ」が起こる場所を探求するとして、これら3つの点を挙げている。だが、これが条件ほど固いものなのか、軽く読んだ限りではいまいち要領を得ない。詳しくはご自分の目で確かめて欲しい。

*5:お菓子に描かれたキャラクターを食べられなかった子ども時分ならいざ知らず、人は知らぬ間にそうした共感能力を失っていくようにできている。